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困窮からの脱出

1610年、バージニア植民地総督に任じられた第3代デラウェア男爵トマス・ウェストは同年夏にジェームズタウンに到着した。デラウェアは戒厳令をもって統治にあたり、入植者を強制的に労働に従事させた。家屋が建てられ、トウモロコシが栽培され、植民地はどうにか存続が可能になった。しかし本国に送られた毛皮や材木では、植民地が投資にこたえて利益を生み出せる見通しはまったく立たなかった。植民開始から10年を経た1616年を迎えても利益の配当はなく、それどころか会社は破産の危機に瀕していた。

そんなバージニア植民地に恩恵をもたらしたのは、タバコの栽培であった。イギリスではエリザベス1世時代にウォルター・ローリーによって、タバコが嗜好品として知られるようになっていた。バージニアではジョン・ロルフが先住民族が植えていたタバコに目をつけ、ロルフはタバコ栽培を唱導した。ただしバージニア土着のタバコは悪臭が強かったので、人々は、西インド諸島で開発された風味ある品種を栽培した。バージニア植民地の生活は、タバコ栽培により大きく改善された。

バージニア会社の入植者がジェームズタウンに上陸した当時、バージニア植民地南東部のタイドウォーター地域には2万人近くの先住民族が居住していた。そしてその中心となっていたのがパウハタン族であり、その指導者パウハタンは周囲のアルゴンキン語族の先住民族を支配下に治めてひとつの王国を築いていた。

ジェイムズタウンの入植者は当初、先住民族との友好関係を重視したが、ジョン・スミスが指導者となると、先住民族には強腰でなければ有利な交渉ができないと考え、銃の威力をもって威圧しようとした。そのためパウハタンと入植者との関係は冷戦状態にあった。

そして1609年、対立は戦闘へと発展した。ジョン・スミスはパウハタンとの和解を目指して仲介にあたったが、その年に爆発事故で負傷し、同年12月には帰国を余儀なくされた。

翌1610年、バージニア植民地総督に任じられた第3代デラウェア男爵トマス・ウェストは同年夏にジェームズタウンに到着した。先住民族との戦闘に備え、デラウェアはアイルランド方式の戦略を導入した。そしてパウハタンの村へと侵入し、家屋を燃やし、食料を没収し、トウモロコシ畑に火を放った。
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だがパウハタンとしては、入植地が拡がらなければ、金属製品などの入手を独占できる点で他の先住民族との関係で有利になると考えていた。そのため入植者との全面戦争は考えず、戦闘は小競り合いに留め、友好回復の機会をうかがっていた。そして、そのような機会を作ったのは、パウハタンの娘、ポカホンタスであった。


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2009年04月30日 11:41に投稿されたエントリーのページです。

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